出されなかった手紙


ディランに下劣で可哀想な奴と呼ばれた男




Bob Dylan called me a “scurrilous little wretch with a hard-on for comedy”(salon)
ダン・バーン(Dan Bern)


1991年、私はメルローズの小さなスタジオ・アパートに住み、エンシノでテニスを教える売れないソングライターだった。自慢できることといえば、たまに来ていたウィルト・チェンバレン(バスケットボール選手)に少しテニスのレッスンをしたことぐらいだ。彼には凄いスライス・レシーブを教えた。

ある日「練習を始めたよ」と彼は言った。
「ここには、ちょっと威圧的なコーチがいるから」
…私のことだ。

私はウィルトにコーチしたことについてブコウスキーの詩のように書いた。一番アホな幻想は、彼とヴェンチュラ・ブールヴァードへ車で行くことだった。「ヘイ!」みんなが通りで声をかける。「あれって、ダン・バーンとウィルト・チェンバレンだよね?」



夜はロサンゼルスのあちこちで小さなギグを演った。水曜日はフェアファックスのチンギス・コーエンというチャイナクラブに出ていた。そこで沢山演奏したから、メニューにも載っていた。“The Dan Bern Deal” 四川風グリーンピースとモンゴリアンビーフ。すごい組み合わせ “The Dan Bern Deal

クラブを経営していたのは、アーティ・ウェインという男で、A&Mの出版もやっていた。業界用語で “for five minutes” 。彼は時々私におせっかいをやいた。私のステージの2分前に「ダン、ボブ・ディランが来るぞ」と言う。アーティは私がディランへの本気の執着を知っていた。多分、首にかけているハーモニカホルダーとか。多分、私が歌ったブルースのトピカルソングとか。多分、私が中西部のユダヤルーツとか。アーティーは私をイライラさせる方法をよく知っていた。


16歳の時、初めてディランを聞いた。それまでビートルズばかり聞いていた。全てはラジオからだった。ある日、母さんの同僚で夫の男がディランのレコードを僕に聞かせた。「これが、Shelter from the Stormだ」と彼は言った。「これは、Blowing in the Wind」翌日、父さんは、僕にギターを買ってくれた。

Blonde on Blondeをレコードプレーヤーにかける。突然、Leopard Skin Pillbox Hatが駆け巡り始め、曲の中に完全に入り込んだように感じた。まるで不思議な国のアリスのような感覚。

大学卒業後、シカゴへ行き週に7回、オープンマイクで歌った。そして、直ぐに自分のライヴを始めた。まだ道の途中だった。10年後、西に移動しエンシノでテニスを教えた。まだもがいていた。でも小さな前進もあった。メジャーなレコード会社のジュニアスカウト、力は無いが、良いスーツにオフィス、名刺…なんかが来た。そして「ソング・トーク(Song Talk)」という出版物でコラムを持った。

私のコラムは「ヴァース・コーラス・ブリッジ(Verse-Chorus-Bridge)」と呼ばれていた。実話は全く無かった。殆どは、私が偶然であった出版社やソングライターをベースにキャラクターを作り、熾烈な音楽とソングライターの世界でなんらかの前進をするという作り話。

ある夜、ボブ・ディランの母さんとのニセのインタヴューを書いた。彼女の名前を知っていたのでそれを使った。ちょうどミリ・ヴァニリ・スキャンダルが世間を騒がしていた(レコーディングで歌を歌っていたのは本人ではなく、全くの別人だったというスキャンダル)。私はディランが実際には彼が曲を書いていないという「スキャンダル」をでっちあげた。結論を言えば、それは彼の母さんがすべての曲を書いていたという話。そして私は、彼の母親に「(架空の)インタヴュー」をした。凄くコミック的な効果があると思った。それらは印刷されて、私は愉快だった。そして全てを忘れていた。

時は過ぎた。私は、LA周辺でレコード契約のために動いていたが、上手く行かなかった。アパートを出て、マイカーを売り、ヴァンを買ってロードライフを始めた。数年間、子犬と一緒のそのヴァン以外に家は無かった。途中、ソニー系列のWork Recordsとの契約を得た。そしてついにレコードを作り始めた。

未だに、いつも、私の後ろにディランの長い影を置くことを思った。それは突然現れて私を飲み込む。私が取り掛かると、お世辞でも何でもなく「君のサウンドは誰かに似てない? そうボブ・ディランだ」と言われる。それは一層私を苛立たせた。もし、(比べるのに)ディラン曲を聞くたびに1ペニー貰えたら、私は億万長者になっていただろう。

ある時に、誰かが何かを言い出す前に、それが来るのに気づく。結局、そうしたものと和解する。大抵そうしなければならない。多分、ジョークにするだろう。

「ボブ・ディランを60年代のダン・バーンだとちょっと思う」と言ったことがある。私は、若きディランが患っているウッディ・ガスリーにしたように、ブルース・スプリングスティーンのコンパウンドに入り込み、彼にセレナーデを歌おうとTalkin Woody, Bob, Bruce and Dan Bluesを書いた。





9月の下旬、友人のポール・ゾロからメモを貰った。ポールは、ソング・トークで大きなインタヴューをよく書いていた。彼の本物のディランのインタヴューは、例の私のディランの母親の架空インタヴューと同じ号に掲載されていた。1991年だった。どうやらディランは、そのソング・トークを1994年に見たようだ。ポールのインタヴューを見て、そして母親のインタヴューを見た。ディランは日本のホテルに滞在していた。何で3年後でしかも日本で見たのか、私にはさっぱりわからない。それで、ディランは激怒した。彼は日本のホテルの便箋に冷酷な手紙を書いた。彼は私をScurrilous Little Wretch with a Hard-On for Comedyと呼んだ。



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今月29日、ロンドンのサザビーズでRock & Popオークションが開催される。ディラン関連の出品では、Hard Rain's Gonna Fall の草稿が以前より話題になっている。

ボブ・ディラン、“はげしい雨が降る” の初期草稿が発見され、歌詞の変更が明らかに(NME)



http://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/2015/rock-pop-l15414/lot.71.html






今回、ディランのものは手書きの草稿や手紙など4点(LOT No. 70, 71, 72, 73)が出品されている。


http://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/2015/rock-pop-l15414/lot.70.html

http://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/2015/rock-pop-l15414/lot.73.html
中でもNo 72、ホテルオークラの便箋に書かれた手紙が目を引く。

http://www.sothebys.com/en/auctions/ecatalogue/2015/rock-pop-l15414/lot.72.html





宛名にGreetings Gentlemenとまぁ、いつものというか、複数形になっているが(笑)。その紳士とはダン・バーン氏のことだ。母親の架空インタヴューをツアー中の東京で知り、そして母親を侮辱したとホテルの便箋に怒りをぶちまけ、バーン氏を激しく非難した。まぁディランの母親(というか身内)をネタにするなんて、かなりな度胸だと思うが(笑)、結局ディランはこの手紙を出さなかった。

オークラのロゴの横にある数字は、ここに返事をよこせという電話番号で、その下にはHARVEY WADEと、ディランのツアー中の変名での署名が入っている。

一方でこの手紙の存在を知ったバーン氏は言葉を失ったという。そしてあれは冗談だったと、もう20年も前のことだと、母親をネタにしたのは悪かったと、ボブいやディランさん、ボブ殿、ボブ殿下、どうか静まって頂きたいとsalonの記事の後半はもう謝りまくって猛省している(笑)。

何かどっかで聞いた話だなと思ったら、自分に届くはずだったジョンの手紙を何十年かたって初めて見たダニー・コリンズの残念ヴァージョンか(笑)。ディランの熱烈なファンであるダンが、ディランが書いた自分宛の出されなかった手紙を20年ぶりに見ると、とんでもなく自分への非難の手紙だった…なんて笑えない(笑)。

いやいやダンは「いい話だよー」と言ってる
Here's a good story--
Posted by Dan Bern on 2015年10月7日

現在彼はミュージシャンとして活動している。
http://danbern.com/


















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